イースターの日曜学校のミサで気づいた。コロナで1番きついことってコレだった

こんにちは。インドからのタイ駐在を経て北関東に本帰国したほっこりです。
昨日は「イースター」でしたね!

子どもたちが通っていた幼稚園はキリスト系で、日曜学校というものが毎週開催されています。
友だちに誘ってもらって、長女ラスカル(14)と次女フローレン(7)が、参加してきました。
聖書の一節を読み、それにちなんだ簡単なお話を聞いて、賛美歌を歌って終わり。という、教会と同じような流れの短い日曜学校です。
昨日はイースターということで、「イエスの復活」についての話でした。
十字架に貼り付けになったイエスは、3日後、埋葬された墓から出て、恐れたり驚いたりする人々に真実を説いて回ったという一節をみんなで読みました。
聖書って、起こった出来事だけを淡々と書いてあるから、逆に想像で補いつつ読んでしまって面白い。内容がめっちゃ波乱万丈なのに!
インド、タイと住んで、今まで割とお釈迦様のことを考えることは多かったのだけど、久々にイエス様のことを考えて、色々感慨深いものがありました。
この二人、とても似ている…。でも正反対の生まれと末路…。
西洋と東洋、そしてその両方が混ざり合うこの不思議な国、日本。
その中でハッとしたことがありました。最初と最後の黙って祈るという短い時間が、以前よりも自分に染み渡るように感じたのです。
年齢…?
いや、きっと私はここ一連のコロナウィルスの蔓延について、自分で思っているよりも心が疲弊しているのかもしれない。
日本が最高すぎるから、家を片付けないといけないから、そもそも本帰国で生活が一変しているから。
私はそんなにコロナウィルスに精神面では影響されていないと思っていた。
でも、やはり無関係ではいられない。
そして、心のどこかで、自分でなんとかしないといけない、自分が頑張らないといけないというスイッチが入っている。
そのスイッチを、一瞬オフにできた気がしたのです。
ずっと気になっていたのですが、日本の私たちは、日常的に祈ることをしないですよね。
時々すごく追い詰められた時だけ祈るので、「信仰心がない」とは言えない。
最後は神頼みをするので、心の底では神様が存在しているとよくわかる。
インドやタイはどうか?
人々はとても祈っていたし、神様やお坊さんのためなら、色々な犠牲を払っても当然と思っているように見えた。日常に信仰があった。
いいなぁと思ってみていた。
この人たちは私にないものを持っている。
でも、一方で、宗教間の対立が大きな根深い争いに繋がっているとも感じた。
だから「宗教があればいい」とは思わない。
ただ、心を静かにして、今日を無事過ごせたことに感謝して、すべてを自分よりも大きなものに委ねる。そういう感覚が、なんだかすごく求められているなと改めて感じた。
神様が生活にいると、自分でなんとかしなくてもいい領域はすべて任せられるんだよね。だからきっとすごく楽。
その領域を間違えて、自分でなんとかできる範囲も神頼みにしちゃうとヤバイってだけで。

てわけで、家にも神棚みたいなの作りました。

パントリーの上だけど

これでラスカル(14)の高校受験で手を叩く場所ができたな!(まさに困った時だけ神頼み)
参考にするためにホームセンターで神棚のコーナー見たら、めっちゃたくさん売っててびっくりした!

多分「日本人は無宗教」と思ってる海外から見たら衝撃映像であろう。

あとは寝る前にちょっとだけ瞑想ぽいことをしてみた。

私の中にも神様は居ると思う。名前がついてないだけで、ちゃんといると思う。

よいものを信じて、あとは任せて、コロナにもしかかってしまっても乗り切って、この流れを見守るしかない。
なぜならすべての経験が自分を形作るのだから。

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