駐在前の自分との断絶が埋まらない

今日はしとしと梅雨らしい雨の朝です。こんな天気だからか、心の中のもやもやを少し整理したいと思います。

本帰国してずっとかすかに感じていること。「自己同一性」とは

本帰国して4ヶ月になりますが、ずっと微かに感じていることがあります。それは…駐在前の自分との断絶です。
昔、教員だった頃、高校生に「アイデンティティ」=「自己同一性」という言葉を説明しないといけない時があって、その時私は「赤ちゃんや小学生の自分と今の私は見た目も感じ方も全く違う。でも自分。その成長や変化の中でも変わらない性質、それが自分を繋いでいるものなんだよ」
みたいに説明した覚えがある。それを今思い出してみる。
もちろん、大人になってたった4年半前の自分のことを、完全に忘れたわけではない。
ぼんやりと、こうしていたな、とか、こんなことを考えていたな、とか、思い出しながら、今生活している。
あれは確かに自分だった。他人ではない。
でも、なんていうのだろうか、それが自分であったという、地続きの実感みたいなものがないのだ。
実感の伴わない記憶、と言ったらいいのだろうか。うっすら紗がかかったような、柔らかな色彩で彩られた薄い風景。
一方、駐在時代の記憶は原色で、匂いも音も鮮明である。

積み上げないでワープした自分

本帰国してすぐの最初は、周りの友達がもう仕事を始めたり、知ってる子どもの友だちも大きくなって見た目がとても変わったりしているから、4年半の「積み上げ」みたいなものから疎外されているのかなと感じた。そのうち馴染んで来るのかな?と。
でも、自分自身の中をよく見ても、同じことを前と同じようには感じないし、視点や考え方も、以前とはかなり違っているなと感じる。「前はこう思ってたんだよな…」という感じ。
4年半ぶりに会う友達と話す時も、なんだかその実感みたいなものがなくて、恐る恐る話す感じがある。車を久しぶりに運転したとき、恐る恐るアクセルを踏んだ、その時の感覚に似ている。車を運転している実感がいまいち掴めないのだ。
その断絶感をやっと言葉にしてバンコク駐在経験のある友だちにしたら、「わかるー。私もそうだよー」と言うので、そうか、私だけじゃないんだと少しホッとした。
彼女が駐在していたのは約8年前くらいなのだけど、よくよく話を聞くと「今も掴みきれてない気がする」と言うのだ。
もちろん個人によって感覚は違うし、そんなの全然感じないという人もいると思う。
ロスとはまた違う、この感覚。
薄れていくとは思うけど、もしかしたらこれから多分ずっとその感覚とともに暮らしていくのかもしれない。「でもいい経験だったしね」そう、行けてよかったと思う。何かを手に入れたら、何かを失うのだ。
でも手に入れたものは得難いもので、自分をこれからも支えていってくれると信じている。
積み上げるのではなく、ワープしたみたいな自分。
立ち位置を確かめ確かめ、ゆっくり焦らずやっていこう。

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