自己肯定感って、自分を好きになることなんかじゃない。

自己肯定感って、よく聞く言葉ですよね。自己、自分のことを、肯定「OK」と思う心持ちのことです。子どもにも自己肯定感が高い子どもになって欲しい!とよく聞きますし、私もそう思っています。が、これについて、私は今まで大きな勘違いをしていたことに最近気がついたので、書いてみようと思います。

自分を肯定する=自分をいいと思うこと?

肯定する、イコール「いいと思うこと」と私は思っていました。自分をいいと思う。自分を好きになる。耳触りのよい、理解しやすい言葉ですが、実行するとなると簡単じゃない。自分を「いい」と思うって、なかなか難しいことなんじゃないかと思います。

なぜなら、自分のいいところはあまり見えないけど、悪いと思える部分だけはたくさん見えるから。自分の怠惰なところ、狡いところ、意地悪なところなどなど、たくさんのブラックなところを、自分だけは余す所なく知っています。今までに失敗した履歴も自分だけは全部知っています。他人にはわざわざ見せないから、知られてないけど、自分からは逃げようもないことです。だから、たとえどんなに他人に「あなたはいい人ね」「親切ね」「素晴らしいね」と言われても、それをそのまま受け取ることは難しいのです。「それはあなたが優しいからそう言ってくれてるんだよ、ホントの私はそんなんじゃないの」って感じに、どうしてもなっちゃうんですよね。

それに、自分よりも素晴らしく見える人は世の中にたくさんいて、それに比べて私はそんなでもないのです。SNSなんかで簡単に見られるけど、リアルでは知らない「この人」に比べて、私は美人じゃない。頭もよくない。運動もそこまでできないし、面白くないし、スタイルもよくない。子ども時代にピアノを習っても途中でやめちゃうし、結局英語も話せないし、走ってもそんなに遠くまで走れない。ブログを書いたってアクセス数が1位とかにならない。(笑)努力が足りないのか才能がないのか運の巡りがよくないのか、とにかく何をしても1番になれない。こんな自分は嫌だな、ダメだなーって思う要素がありすぎる。で、もし望み通り1番になったら、自分を好きになれるのかというと、そこがまた難しいところで、他の足りないと思われるところが見えてくる。あるいはずっと1位でいないといけなくなり、ますます息苦しいというオチが待っているかもしれない。

SNSなんか開かなくても、すぐ隣にいる人と比べても私は優れたところがない。真面目な人ほど、そんなふうに自分をジャッジしていきます。そんな中で「自分のことを好き」と言えるわけもなく、でも「自分が好き」って言える人が正解なのに…と、またそれで自分を良くないとジャッジしていきます。そういうループって終わりがないです。

一見上手くいくかなと思った手法

でも、そんなに自分をジャッジし続けるのもしんどいので、何かいい方法はないかと考えました。この方法は少し楽になれたので、上手く行ったように思います。その方法とは、「自分を友だちのように思う」ことです。

例えば自分を外から見て、こんな人が友だちだったらどうかな?と思ってみる。もし友だちなら、そこまで厳しくジャッジはしない。一見フレンドリーな感じもするし、まあまあ仲良くやっていけそうじゃない?心の中の悩みを聞いてあげて、「そんなの大丈夫だよ」「あなたは頑張ってるよ」と励ましてあげたくなる感じがする。視点を外に出して自分を客観的に見たら、そこまでストイックに高い目標を掲げない。だって友だちだから。自分じゃないから。それで十分だからです。自分じゃないと思うとジャッジのハードルは下がります。この方法で少し楽になった私は、数年この方式で暮らしていました。

でも、ある日、何気なく思ったんです。

自己を肯定するって、「こんな自分がここにいる」ことをただ「受け入れる」ことなんじゃないか?

と。肯定って、何かと比べていいとか優れてるとかではなくて、ただ「受け入れる」ことなんじゃないかと。こんな風に思ったのは、私がずーっと陰ヨガのワークをし続けてきたからかもしれません。陰ヨガでは、自分のありのままの体と心の状態を、ジャッジを外して、ただ受け入れるということを目指すのです。

こんな自分、不器用で色々上手にできず、見た目もアレだし性格もアレな自分。子育てもうまくできてないし、人生も行き当たりばったりで計画的でないし、理想とはかけ離れた自分。こんな自分が今ここにいる。なんか知らないけど世界に存在しちゃってる。ここに現に生きている。とにかく一生懸命存在している。とにかく、その事実を受け入れる。つまり、理想的でもなく、価値があるとも思えない、つまんない自分の存在を「肯定」するってことなんです。「ここにいて良いと許可して、受け入れる」ことです。

よく考えてみたら、周りの世界はずーっとその許可を私に与え続けていました。生まれてから、今この瞬間まで。どんなに誰かに悪く言われても、嫌がられたとしても、私はここに居続けることができた。なんならそういう嫌な経験ですら、何か与えられたもので、そこから学ぶ何かがあるだけだった。世界は私を許し続けてくれていたのに、私だけが、ジャッジをし続けていたのです。いわゆる一人相撲です。(天災や事故で命を失うという事態は、この場合ちょっと外して頂きたいです。そのことについても、ずーっと考え続けています。なかなか難しい命題だと思っています)

自己肯定感とは、自分をジャッジしないこと

もし、自分の子どもに「自己肯定感を育む」ってことがしたいと思っていたら、まずは自分が自分をジャッジすることをやめることです。とにかく、苦い薬を飲むように、煮え湯を飲むように(笑)自分が自分であるということを受け入れます。そんなに楽しいことではなくて、基本的には「諦める」って感じ。だから、「自分を好きになる」って感じとは全く違う心持ちです。「あー、仕方ない、私はこういう人間で、それ以上でもそれ以下でもないんだ」と、ただ認める。そしたらびっくり、周りの人や、子どもの色んなことがあまり気にならなくなってきます。子どもなら、そこに居てくれるだけでいいっていう生まれた瞬間のあの初心が思い出されます。周りの人なら、「なるほど、この人はこういう風に生きたいんだな。私はこういう風に生きたいと思わないけど」ってなります。

良い、悪いというジャッジについて

そもそもなぜそんなに自分をジャッジし続けていたのかというと、誰かに認められたかっただけだったり、よりよい自分に成長したかっただけだったりします。小学1年生の時に、先生に褒められたかった、周りの人々に認めてもらいたかった、その子どもの時の心が残っているのです。その時から我々はずーっと色々な経験を積み、成長し続けるためだけに生きているのだと思います。経験は当然甘いものも苦いものもあります。それを味わうために生まれてきたのだろうと思います。

ジャッジにはいつも「良い」「悪い」という判断が伴います。それをやらないということは、良い、悪いを手放すということ。善悪というのは、頭で考えた便利な概念で、実はそんなものはありません。現実の世界には、陰陽のように、さまざまな相反するものが混ざり合っています。完全なる善悪は、おとぎ話にはあるかもしれないけど、現実には存在しないのです。

例えば「悪」と思われる、誰かの命を殺めてしまった殺人犯などを考えてみると、その人が「そうせざるを得なかった」流れというものが必ずあります。人というのは、誰かの命を奪うようになるためには、色々な流れ、理由があると思います。例えば環境、お金の問題、元々持っていたキャラクター(それすらもその人のせいではなくて、生まれ持ったものだったりして)、感情や思想の蓄積。その人がそういう行動をしたのは「色々な条件が重なった結果」でしかなくて、その人そのものが元々悪人100%であったわけではない。悪名高いヒトラーだって、条件が整わなければ、才気あふれる画家になっていたかもと言われていますよね。

もちろん、悪いことをする、しないの前には、その人自身のストッパーがかかるべきで、責任も伴いますが、私が言いたいのは、そのストッパーすらも、自分の意志でどうにかできるものではないということです。まあ、私自身が、「死にたい」とか「殺したい」と思ったことがないので、その辺りは想像でしかないのですが。例えばやる気スイッチが自分でなかなかコントロールできないのと同じ感じかな。

まとめ

ちょっと話が遠いところまで来てしまいましたが、私の捉えた「肯定」の意味合いが分かっていただけたでしょうか?私はことことに気がついてから、もちろん完全にジャッジを手放した訳でもなく、行きつ戻りつやっているわけなんですが、ものすごく楽になりました。

自分を「諦める」ことで、逆に自分を取り戻した感じです。ダメな自分でも「そのままでいいよ」となると、怖いものがなくなる感じがします。本当に怖いのは、他の誰でもない、自分の1番近くでいつも自分をジャッジし、責めている、自分自身です。そこから解放されたら、本来持っていた、自分の真の力が出てきます。

こんなんで伝わったか甚だ心許ないですが、この一連の私の気づきが、あなたの何かのヒントになれば幸いです。長々とした記事をお読みくださり、ありがとうございます!

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